ゆるむ@ ゆるんで・今を楽しく・次の今も楽しく(#^^#)

ゆるんだ思考で、日常の疑問を、一緒に考えてみませんか?

不確かさを楽しむ

ご訪問いただきありがとうございます。

 

今は情報社会・ネット社会なんて言われますが

その情報って、そもそも他人の話です。

他人の話がどこまでホントか?どれくらいホントかはわかりません。

つまり、メディアだけでなく、政府だけでなく、あらゆる情報が不確かなのです。

 

そもそも、全ての存在は不確かな中で生きているんです。

この事実を認識することがとても大切だと思っています。

この事実を認識していることで、望む現実をつくりやすいと感じています。

 

 

不確かさを楽しむ

 

 

あなたにとって『絶対』と言い切れることってどれくらいありますか?

僕にとってはひとつです。

『思考が先、現実はあと。』

あえてもうひとつ言うなら『死ぬ』ということです。

ただ、死ぬことに関しては、いつ・どこで・どんな風になんてことはもちろんわかりません。(笑)

死ぬという事実以外は全部不確かです。

だから死ぬまでの間”不確かさ”を、満喫したい。楽しみたい。味わいたい。かみしめたい。

そんな風に思うんです。

 

さっき僕が言った、『思考が先、現実はあと。』

そして死ぬということ。

これはあなたにも該当することです。

全ての存在に該当することです。

だから、みんな好きにすればいいって思うんです。

ましてや、いつゲームオーバーになるかわからないんだもん。

後悔したくないもんね。

だから、どんな理由であれ、他人にコントロールされたくないんだよね。

介入されたくないんだよね。

だから、「おかしい」って思うことには従わない。

そして、離れる。

とてもシンプルです。

 

介入する人に「やめて下さい。」といっても聞き入れません。

だから、そっと離れます。


 

自分の現実は、目の前にあるわけで

それは揺るぎない事実なわけで

確かな情報です。

自分自身が見て感じたこと。

読んで腑に落ちたこと。

聞いて心地よくなったこと。

誰かと一緒に居て楽しいと感じたこと。

食べておいしいと感じたこと。

これらが自分自身で感じ取った(一次)情報です。

この情報は、自分のハートで感じたもの認識したものであり

感覚で感じ取った情報です。

それ以外の情報は二次情報、あるいは三次情報であり、それ以降の情報です。

そもそも事実かどうかもわからない情報がネットを通じてリレーされたり

元情報を加工したものが、伝言ゲームみたいになって広まっている情報もあるわけです。

しかし、その中でも腑に落ちる情報ってのはあるわけです。

何も知らなくても、自分にとっての真実はあるわけです。

それはその時の自分の思考です。

よく言いますが、自分で調べる。考える。

これ、とっても大事なことです。

しかし、それ以前に”自分の中の核”なるものがあると思っています。

その核の影響を受けて思考されるような氣がするんです。

あくまで僕のイメージですが

思考するって言うのは、自分の中のと一体化したがあって

そこに思考エネルギーが注がれて、ホログラムが浮き上がるイメージです。

そして、その時のエネルギーとマッチする情報を選ぶようになっているんじゃないのかな?って思うんです。

例えば、未だ利用され続けているPCR検査について疑問を感じて調べる人

「調べてみなよ。」と言われて反論する人とでは、最初から目にする情報が違うんです。

ザックリ言うと、前者はメディアや政府の言うことが「おかしい」と思っている人。

後者は、メディアや政府の情報を刷り込まれている人。

後者は、軸が無かったり(ブレていたり)、核が無かったり(小さかったり)し

思考停止になっているんじゃないのかなと思うんです。

結果、自分で考えられないから外から与えられる情報だけを受け入れ

その情報元に依存し続ける状態。

コントロールしたい人と、されたい人という、需要と供給の関係。

需要と供給といっても、実際は一方的なエネルギーの搾取ですけどね。

 

まあまあ、今、こんな風に言ってる僕も直感で動くときは動きますが

直感をスルーすることも多くありました。

反対に妙に対策するんです。

例えば生命保険をはじめとした各種保険関連。

防災関係など、困っていないことにお金をかけ対策したわけです。

(今も99%以上の人が、本当は不要なものを購入し浪費していませんか?

→これも”消費”+”税”という権力者の目的のひとつ。)

究極は、対象年齢出ない頃、実費+有給で人間ドック行っていたことです。(爆)

不安を感じていたのか?と言えば定かではありません。

ただ、”備えれば憂いなし”という思いはありました。

備えマニアだったんでしょうね?

ある意味、外の情報に操られていた!?

あれほど病院が嫌いで、信用していないのになぜ?って感じです。

今思えば、「検査することが良いこと」と思っていたんでしょうね。

無意識に不安を感じていたってことなんでしょうね。

それすらもわからないくらいに思考停止だったってこと!?(笑)

 

社畜時代に保険関係は全て解約しました。

行政が勧めるあらゆる検査はスルーです。

医療とは不安を利用したビッグビジネス。

 


 

巷では科学的根拠・エビデンスでの裏付けが必要と思わされています。

どことなく科学自体が神格化されています。

しかし考えてみて下さい。

エビデンスと言えるものがどれほど存在するでしょうか?

また、科学というものの信ぴょう性はどうでしょうか?

僕にはほとんど感じられません。

根拠はありませんが、既存の科学の多くは信用していません。

○○学と言われるものの大半も信用していません。

なぜなら、自分自身「ダマされた~」と感じる出来事がいくつもあったからです。

また、新たに腑に落ちる情報を知ったからです。

 

これ、基本スタンスです。


食べて寝て好きにする。

 

 

昔は不確かであることを出来るだけなんとかしようとしていたような気がします。

起きてもいないことを想定し、勝手に不安になっていたのだと思います。

しかし今は、不確かさに不安はありません。

あったら、今の生活続いていません。

今、自分の中での不確かさは自由であり可能性です。

だから、そこに対しての介入は受け入れません。

そして争いません。

争ったところで敵わないもん。

だから、同じ土俵には上がらない。

そしてそっと離れる。

 

今日、一番言いたいことは

『不確かさを楽しもうよ!(笑)』ってこと。

 

最後までご覧いただきありがとうございます。

 

 

ゆるんだハートで『今』感じたこと、まんまAction!!

「今」も・「次の今」も、心地よく楽しく。(笑)

 

出来ました。出来ました。出来ました。

ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。

感謝します。感謝します。感謝します。