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質問を投げかけた時に「根拠なんてありません。」という回答。
僕は共感し、萌えました。(笑)
今日の疑問:「根拠」とは?
人が何かを語る時、根拠は?証拠は?理由は?などと相手から求められます。
けど、それらは必要なの?なくてはならないもの?
“根拠”ってあっても、無くてもどっちでもいいもの?
“根拠”は、後付けなものであり、ただの口実。
“根拠”は、手段であり、ひとつの仮説であり、プロセス。
“根拠”とは表現しきれないものを無理に理論づけ言語化したもの。
食べたい時、寝たい時、根拠は必要でしょうか?
好き・嫌いに根拠や理由は必要でしょうか?
「やりたい」・「やめたい」に根拠は必要でしょうか?
“自分がこう思う”ということを誰かに伝える時、根拠は必要でしょうか?
求める人はいるかもしれません。
しかし、感覚的なことや感情ってその人の内側にあるもので、当人にしかわからないものです。
ある程度想像は出来るかもしれませんが、それはあくまで他人の想像でしかありません。
直感的なものは当人にしかわかりません。
“根拠”となると、当人にすらわからななかったりします。
なぜなら、根拠なんてものが存在していないからです。
自分では日々「これでいいのだ!」と思っています。
しかし、僕らの日常では根拠や証拠にスポットがあてられ求められます。
これは、ある意味“直感”を排除すべく考え方であり、習慣だということです。
例えばビジネスシーンでは「直感です。」とか「なんとなくそう思うんです。」では通りません。
必ず、根拠を求められます。
企画書やら提案書やら見積書やら、仮説を立て数字を使いビフォーアフターの違いを説明します。
この説明を“根拠”と言います。
“根拠”には仮説があります。
しかし、直感には“根拠”も仮説もありません。
あるのは結果(ゴール)だけ。
また、ネットも含めたマスコミでは、報じられる情報に対し、信憑性がどうこうと対立が起きたりします。
特にSNSやYouTubeでは、知恵比べ?論破?が起こっています。
またテレビでは、コメンテーターと言われる学者・専門家・有識者?“先生”って呼ばれる人などが、それらしい“根拠”を準備して視聴者に解説?しているようです。
しかしこれは、テレビ局や番組スポンサーのシナリオを代弁しているに過ぎません。
そもそもテレビは誰の意思によって、何を目的に放送しているのか?ってことです。
また、たま~に見る国会放送ホントすごいですよ。
根拠というより、状況説明にもならないのらりくらりの答弁。
言い訳を交え、質問に対する回答とは思えない、とんちんかんな答弁の連続。
多額の税金を受け取り、さらに多額の税金を使って開かれる国会は、しょうもないやり取りばかり。
しかも、議題が全く進展しません。
テレビでは巧妙に編集されているのでしょうが、通しで見るとホントひどいものです。
欲しいのは権力!?
その為の承認欲求?その為の介入?
雄弁に何かを語る人がいても、それが真実かどうかはわかりません。
根拠・裏付けと言ってもそれが事実かどうかはわかりません。
だからこそ、周囲に惑わされず自分の直感で判断してみてはどうでしょうか?
理屈が分からなくても、スッと腑に落ちるものは自分にとっての事実です。
全て思い通り。
既に耳タコだと思いますが、「思考が先・現実が後。」
仮説の有無に関わらず、根拠の有無に関わらず、本当に思ったことは実現します。
どんな根拠を準備したところで、不安が勝れば実現するのは不安交じりの現実です。
反対に、何の根拠も無いのに妙に自信あることって経験ありませんか?
「なんかしんないけどうまくいきそう」みたいな・・・
僕はこの「根拠のない自信」って最強だと思っているんですよ。(笑)
「はっ?アホか!」と思われるかもしれません。
それでも僕の日常は根拠のないことだらけです。
「ここ行きたい」
「これしたい」
「これみたい」
「これ食べたい。」
どれもこれも根拠なんてありません。
無いものを探そうとするとややこしくなります。
不確かであることを“不安”と思うのか、“楽しみ”と思うのかで現実が変わります。
僕は後者を選びます。
もちろん、根拠なんてありません。(笑)
最後までご覧いただきありがとうございます。
ゆるんだハートで『今』感じたこと、まんまAction!!
「今」も・「次の今」も、心地よく楽しく。(笑)
出来ました。出来ました。出来ました。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
感謝します。感謝します。感謝します。